私は、1974年に早稲田実業学校高等部普通科に入学しました。したがって、学校と関りを持ってから今年で50年になります。生徒の頃は、バスケットボール部で関東大会や全国大会に出場したりと、充実した日々を送っていました。そのころから将来は教員になり、バスケットボールのコーチをしたいと思うようになりました。バスケットボールにかかわるならば体育の教員だろうと、大学は早稲田大学教育学部教育学科体育学専修(現在のスポーツ科学部)を希望し、推薦していただきました。大学でもバスケットボール部で4年間活動を続け、教育実習も母校で行うことができました。
公立の教員採用試験を受け、その結果を待っていた時、早実の当時体育科の主任だった先生から連絡があり、年度途中で退職者が出て来年度専任の採用があるので受けてみないかと言われました。結果として採用が決まり、学部を卒業してすぐに母校の教員となることができました。
高校時代からの夢であった教員。しかも母校で叶った。なんと幸運なことかと思ったものです。しかし、その時、1981年。定年退職が2024年、なんだそれは、遥か40年以上先の将来まで勤め上げることができるのか、たいへん不安にもなりました。
いよいよ教員生活が始まり、授業はもちろん、放課後、日曜祭日はバスケットボール部の指導、研究日は普段できない仕事をするため学校へ。結局休みのない生活が続きました。
しかし、部活動で顔を合わせる生徒たちは「早実でバスケットボールがしたい」という熱心な生徒ばかりで、必然的にこちらも熱が入り、充実した活動で疲れを感じることはありませんでした。熱心に活動してもそれが戦績に結びつくとは限らず、結果を残せない時もありましたが、そんな時もOBの方々は暖かく見守ってくれました。地道な活動が実を結び、全国大会に4回出場することができました。
現在、文部科学省では教師の負担軽減を目的に「学校の働き方改革」を推進し、その中で部活動は「学校の業務だが必ずしも教師が担う必要のない業務」とされています。いわば私が今まで活動してきた真逆の方向に進んでいます。確かに指導経験のない部活動の顧問になることは多大な負担になると思います。しかし、私の場合は「部活動を指導するために教員を志望した」といっても過言ではありません。そしてそれが43年間の教員生活を支えてくれたものと思っています。
これからも早実の生徒は、文武両道を目指し、勉強は勿論ですが、他の活動も充実した学校生活を送ってほしいと思います。
この度、退職にあたり、今まで関わった多くの皆様に感謝申し上げます。
ありがとうございました。
平成 6 年から「家庭科の男女共修」が実施され、それを機に 28 年間、本校でお世話になりました。それまで家庭科は女子のみが必修で、その時間男子は体育をやっていました。そんな状況に対して、社会の中からも教育現場からも「“性別役割分担意識”を植え付けかねない」という声が上がり、共修の実現に向けた運動が始まります。「家庭科の男女共修をすすめる会」を中心に、「家庭科を男女共に学ばせたい」という多くの家庭科教師の思いが社会を動かし、ようやくこの年から当時男子校だった早実でも家庭科が始まったわけです。
今でこそ家庭科を男女共に学ぶことに抵抗を感じる生徒はいないと思いますが、当時は「なぜ男子も家庭科を学ぶ必要があるんですか?」という質問を、生徒からも同僚からもよく受けました。でも時代の変化とともに少しずつ生徒の意識も変わり、当たり前のこととして受け入れられていったのではないかと思います。卒業生の多くが家事や育児に何の抵抗もなく積極的に関わっていると聞くと、時代は変わりつつあることを実感しうれしく思います。
私自身のことを振り返ってみると、子どもを二人育てながら専任として働き続けることは本当に大変でした。特に下の娘の育児休業が明けて復帰した 1 年目の大変さといったら、今思い出しても辛いものがあります。でもやはり教師として働くことは喜びであり、生き甲斐でもありました。だからこそ昨年末に出産した長女にも、今年の 5 月にアメリカで出産予定の次女にも、なんとか仕事と子育てを両立させ頑張ってほしい、そのためのサポートは全力でしてあげたい、そんな思いからこの度早期退職を決断しました。
前任校での勤続年数を合わせると 41 年間教壇に立たせていただいた幸運と、多くの生徒の皆さん、保護者の皆様、教職員の方々に出会えたこと、校外教室や海外研修など様々な体験をさせて頂いたことすべてに感謝し、退職の言葉とさせていただきます。本当に長い間お世話になり、ありがとうございました。
早実は我が心の故郷、我が母校であるが、42年前に縁あって英語の教師として戻ってこれた。娘が2歳であったころ家族でアメリカはインディアナ州リッチモンドにあるアーラム大学及びリッチモンド高校で1年間、日本語教師として勤めながら、給料をもらい、同時に、一英語教師として、四季を通じて生の英語に頭からすっぽり漬かっての英語研修(フィールドワーク)に恵まれた。帰国後、これから退職まであと30年余りあるのかと思うと気が遠くなる思いであったが、あれからあっという間に月日が過ぎ去ってしまい、この春、退職を無事迎えることとなった。
42年という長い月日を無事勤め上げられたことは、自分にとって大きな喜びであり、大きな誇りであるが、教職員の方々からの多くの励ましのお言葉とお力添えがあったからこそであり、多くの素晴らしいそして優秀な子供たちに恵まれたこと、更には、陰ながら応援してくれた家族がいたからこそ成し遂げられた‘偉業’だと確信している。この場をお借りして感謝申し上げたい。本当にありがとうございました。
さて、ここでは、42年間何に一番心がけて教壇に上がり続けてきたのかということと、早実での一番の想い出についてお話しさせていただきたい。 早実の恩師には名物教員が多い。日本史の杉仁先生もその一人だが、当時NHKテレビ日本史講座の講師でもあったが、子供たちから「一見バラバラ先生」と呼ばれ、親しまれていた。私の尊敬する先生の一人であり、この先生の教えこそ私の教育理念そのものなのである。つまり、勉強をするということは、一見バラバラであった事柄が、一つにまとまってくることを意味し、結局のところ、学問の面白さとか、物の見方を学ぶことと言い換えることが出来る。子供たちに一番授業で伝えたいことである。
例えば、「円柱」は英語で何というかご存知か? 誰もが知っているのにほとんどの人が答えられない。では、ヒント。「円柱」の形をしていて、理科室の実験器具の一つで「メス何とか」というものというと、「シリンダー(cylinder)」と簡単に答えが出てくる。バラバラに教わる生徒が一番の犠牲者にならないよう、英語科の教師が言葉の交通整理をし、時には辞書を使って指導する必要があると研修会の講師から指導されたことがある。
では、問題。「円すい」を英語で何というかお分かりですか?これも知っているのに答えられないだけなのです!? では、ヒントです!「円すい」の形をしているもので、体育館や工事現場に置かれているものだが… はい、その通り!「コーン(cone)/ koun /」です。ちなみに「トウモロコシ」を意味する単語は、corn /kɔ:r/といいます。
では、「四角すい」は英語で何というか? もうお分かりですね!エジプトにある…正解!「ピラミッド」(pyramid)」ですね。まるで、「トリビアの泉」ですよね!勉強ってこんなものではないでしょうか?「なるほど」とか「へ~ぇ」とか「何~んだ」といった大したことがないことなのです。
「先生、英語の発音が上手ですね!」とか、「教え方が上手いですね!」といった類の子供たちからの誉め言葉は、余りうれしくはない。では、どう褒められたらうれしいと思うかお分かりですか?「何故、授業中、先生はそんなに楽しそうなの?」とか「何故、そんなに英語が好きなの?」と言われることが私にとって最高の誉め言葉なのです。
『英語辞書を使いこなそう』(1999年4月;『岩波ジュニア新書319』という私にとっては最初で最後の1冊となった(単)著書があります。現在は、品切れ(「絶版」を意味する)で、ネット上で古本としてしか入手できません。しかし、ネット上には、読者の読後感想文が多く『ブック・レビュー』としてよく載せられています。古本としての価格は、何と1円で、送料の方が230円なりと高くつくといった代物だが、以下のような書評が載せられていて、教え子の一人?と思われる匿名の方からお褒めの言葉を頂いた。本当に感動したので、敢えてここにその抜粋を載せておきたい。
Get out of here!「ここから出て行け!」
それが先生の口癖でした。私は先生のことを苦手に感じていました。騒げば怒るし友達と会話をしていれば怒り、そして挙句の果てには寝ている人にまで怒り始める始末。しかしこの本を読んでからイメージが全く異なったものへとかわったのです。この本には英語に対する熱い気持ちが表れていました。そして私たちにも授業を通してそんな気持ちを共有して欲しい、そう思い注意していたことを感じ取れたのです。これは浜野先生の生徒としての意見ですが、きっとみなさんもこれを読めば先生の英語に真剣に向き合う気持ちが汲み取れると思います。ぜひお手にお取りください。(2015年3月後輩見てる!投稿者:カオスディクショナリー)
偶然このブック・レビューを目にしたときはうれしかった。理屈ではないのだ。真剣さは必ず子供たちに通じるということを子供から直接教えられたのである。気持ちが通じるには真剣さしかない。兎に角、先ずは、自分がやって見せるしかないのである。自分を高めず、ただ、子供たちに「勉強しろ!」と言っても効果はないのである。「僕は英語が大好きだ。英語だけはだれにも負けない!じゃ、君には何がある」と言われたら、「何と答えられるか?早く好きなものを見つけて欲しい!」
最後に、早実での一番の想い出は、自分が中学生であった頃、まだ男子校であったことから、やんちゃな生徒が多く、クラスの半数以上の人が因数分解の落ちこぼれとなってしまった。その救済措置として、急遽平日であったが、一学年全員、長野県の駒ヶ根に連れて行かれ、2泊3日の‘因数分解’合宿が強行された。朝から晩まで因数分解の問題に取り組まされ、出来ないと宿泊所(当時はまだ駒ケ根校舎はなく、「すずらん荘」といった国民宿舎)の前の沼の周りを何周も走らされた。現在の早実ではあり得ない‘大らかさ’が昔の早実にはあった。教師になってからの早実での一番の想い出は、やはり何といっても駒ヶ根校舎での6泊7日の本格的中央アルプス登山がメインの郊外教室、『中2高原教室』であった。特に登山では、生徒の引率どころではなく、自分との真剣勝負で、いつも冷や汗もので、とことん教師としての自分を鍛えてくれた。 感謝!
勤務してからもう40年も経ち、退職のときとなった。中・高校生を相手にしているためか、歳を取っていく実感がなく、いつも若いような錯覚をしていた。まず、無事に退職を迎えることができ、生徒・卒業生・教職員・保護者の方に感謝申し上げたい。
人を育てる職業についていたが、役に立てたかどうか分からない。生徒と一緒にワイワイやっていただけのような気もする。成長していった生徒は自ら学んで成長したのだと思う。
勤めて何年もしてから、数学の世界を伝えることと社会で働くOBの声を伝え、今学ぶ意味を考えさせることを目標とした。そのため、授業では数学史に触れ、定期試験の余白に数学の話題を載せるようにした。未解決問題(350年以上も未解決)として何度も紹介したフェルマーの最終定理(「を満たす自然数は存在しない」)も1994年にワイルズが証明してしまった。教員になって一番うれしかったことは、生き生きと働いている卒業生の話を聞くことである。私は教職しか知らないので、一般企業の話は新鮮で魅力的であった。(なお、授業を終えた後、質問を受けるのも、またうれしいひとときであった)
建築ツアーや裁判傍聴、理化学研究所・鉄道総合研究所訪問、企業訪問、卒業生の講演、大学院生講義などで、多くの卒業生のお世話になった。建築ツアーや裁判傍聴は現在も続いている。依頼すると、どの卒業生も快く引き受けてくれた。この場を借りて、改めて御礼申し上げたい。
部活動では、弓道部の故細井英彦監督が印象深い。細井監督が生徒に怒鳴っているのを一度も見たことがなかった。私が初めて接した人格者である。
たくさんの出会いがあった。いろいろな人に助けて頂いた。これからも生徒の成長、卒業生のご活躍を心よりお祈りしたい。
茶人大名小堀遠州は「夢」という言葉を好んだ。
ありきたりな表現だが、私にとって夢のような早実の32年間であった。鶴巻町男子校時代、国分寺移転、男女共学化、初等部受け入れと本当に目まぐるしかった。勿論私の力不足に由来するが、忙しい日々で落ち着きもなかった。また、心の引き出しを全て開け、から雑巾を絞りに絞って知恵を出す体験も度々あった。
最後なので、たいしたこともなく、この紙面ではとても多くを語り尽くせないが、私の教員生活の思い出をおこがましくも一部紹介させて頂く。
それまでの早実のセールスポイントであった校外教室を「総合的学習の時間」に組み替える仕事(中3向け)に携わり、とりまとめを6回務めさせて頂いた。
縁の下の力持ち、教科書関係の仕事もおそらく20年以上務めさせて頂き、思い出深い。
部活では若い頃は弓道部で、大学弓道部の門を叩き、初心者から練習を重ね、生徒と共に弓を引き段位も取得した。また都中学の連盟事務局を局長として10年近くお手伝いさせて頂いた。顧問在任中、初心者から育った清川裕志君のインハイ個人優勝のご褒美もうれしかった。
将棋囲碁同好会顧問も31年務めたが、あまりの不向きさに自分で自分に驚いた。中村太地プロが多忙のため活動にあまり顔は出せなかったが、同好会在籍中にプロ棋士に昇格したのが思い出だ。
教科では、多くの生徒と国語特に古文と漢文を学び、目から鱗が落ちる貴重な経験を何度もさせて頂いた。古人は自然と共生し、自然から謙虚に学んでいた。そのような人々の言葉が持つ「いのち」の力強さに敬服する。古典は本当に「宝の山」だと心から思う。
生徒の皆への最後のメッセージは、授業をしっかりと聞いて、単調で退屈かもしれないが自宅での学習を嫌がらないで積み重ねること、ゲーテの言う「日々の要求に応える」ことだ。本当に大切だと確信している。日々の要求に応え続けていると、ある日様々な「位相の逆転」が起こる。それが非常に面白い。
多くの笑顔に接し、あるいは煌めく才能、あるいは「一隅を照らす」努力を黙々と重ねる生徒もおり、つらいこともあったが、皆がもたらした幸運も訪れていたと確信も出来た。
遠州は深遠な「きれいさび」の世界を構築したが、神仏の加護を受け、多くの人々から恩を受けながら私はどのような「世界」を皆に提示できたのだろうか?心もとないかぎりだ。
今、退職に際し、親御様、教職員の皆様、OB、OG、生徒の皆に深謝申し上げる。
静かに流れるあのメロディー 変わらぬ友の顔がある
名前を呼ばれた友の いつもと違う顔がある
制服を脱ぎ捨てて 置いてゆこう 想い出の中に
駆け抜ける 赤い列車 花吹雪 舞い上がり
3年ドラマのフィナーレを飾る
光の中を 胸を張り 前を見つめる友がいる
拍手の中を 歩いてく 誇らしげな友がいる
それぞれの想い出を 胸に 今 旅立ちの時
校庭の 高い空 春の夢 舞い上がり
3年ドラマのフィナーレを飾る
友の顔 かすんで見えるのは 春のせいだけではないだろう
それぞれの想い出を 胸に 今 旅立ちの時
駆け抜ける 赤い列車 花吹雪 舞い上がり
3年ドラマのフィナーレを飾る
いつかまた きっと
卒業生に贈るために作った曲ですが、自分が卒業することになりました。
若さのまっただ中で、目標に向かって悪戦苦闘する中学生・高校生と、喜びも悲しみも共有できたことを誇りに思います。
グランドの向こうを中央線の赤い車両が走り抜けると、桜の花吹雪が舞い上がり、早実の未来に拍手喝采を送っているようです。
先日、最初の卒業生から最後の卒業生までが集まって、お祝いをしてくださいました。本当にありがたいことです。教師冥利に尽きます。
早実という学校のお陰で幸せな教員生活を送ることができました。お世話になったみなさま本当にありがとうございました。
奈良の明日香にある橘寺というお寺の境内にいくつかの石物がある。それらの石物に混じって、二面石と呼ばれる変わった石像物がある。何のために作られたのか、誰が作ったのか、どうしてここに置かれているのか全く分からない、謎に満ちた不思議な物体である。
話は変わって、早実ではいつの頃からか国語科の教員海老原を「二面石」もしくは「二面石の海老原」と呼ぶようになっていた。
本来は、人間が持つ善なる心を象徴した無垢な顔と、悪なる心を象徴した醜い顔の二つの顔を持つものを二面石と言うのだが、早実の「二面石」は、 “目上の方々方にはいい顔を見せ、目下の生徒達には我がまま顔を見せるという意味での「二面石」だ” という噂が交わされていた。最近では、 “二面石とは言いながら、表も裏も悪の顔だけを持つものが早実の「二面石」だ” という説が専らとなっていた(左似顔絵参照)。
海老原教諭は、 “言うこととやることが異なる” のである。言われた生徒にしてみればどうして良いのか分からない、分からずに迷って何もしないでいると怒られる。年配の先生や目上の方々には腰が低く、生徒達には居丈高。自分で言い間違い、聞き間違い、勘違いに気がついても、我を張って直そうとはせず。従って海老原は表も裏も顔そのものが「悪」だと言うのである。当人は、「俺こそ “早実のメビウスの輪” だ」と言ったり、「(注)岡林信康の歌詞だって裏返っているだろう」と、訳の分からないことをいいながら、「肘を衝くな」「そのまま立ってろ」と授業を進め、最後は「蝉蛻」と言う言葉で生徒達を煙に巻くのが常であった。
そうこうしながらも早実では四十年近い月日が流れ、海老原の教員生活も遂に一巻の終わり。
「二面石の海老原」でも長い間教鞭を執れたのは、まさに早実の寛容のおかげそのものであった、と最後にいい顔をしても、後の祭り、祭りの後か。
(注)岡林信康・・・フォークの神様といわれる。『私たちの望むものは』の一節に「私たちの望むものは/生きる苦しみではなく/私たちの望むものは/生きる喜びなのだ ~ 私たちの望むものは/生きる喜びではなく/私たちの望むものは/生きる苦しみなのだ ~」とあることを指す。
一、至誠に悖(もと)るなかりしか (不誠実な行動はなかったか)
一、言行に恥ずるなかりしか (言動に恥ずべき点はなかったか)
一、氣力に缺(か)くるなかりしか (気力に欠けるところはなかったか)
一、努力に憾(うら)みなかりしか (悔いを残さずに諦めず努力をしたか)
一、不精(ぶしょう)に亘(わた)るなかりしか (無精せず最後まで物事にとりくんだか)
これは70年前に解散を余儀なくされた江田島海軍兵学校で一日の締め括りとして暗誦された訓戒です。これらを完璧に実践する事は至難の業ですが、少なくとも目標として今後とも努力してゆきたいと思います。
1964年に早実中等部に入学し、1974年に英語科教諭として母校に戻り、実に53年間早稲田にいる事が出来たのは何よりも嬉しく幸せでした。大好きな早実で、大好きな生徒達と共に勉強する事が出来て、これ以上の喜びはありません。早実生は有能で素晴らしい個性を持ち合わせています。将来、必ずや日本の中核となり社会の役に立つ人材になると信じています。小さな事から積み重ねて物事は成就するものです。今後は外から皆さんを応援しています。幸せというものは人間の心の奥深いところに隠されているものですから。
この間、11人の校長先生と出会えて早実の発展を見守って来ましたが、今後も更により一層発展する事を心より願っております。長い間、本当に有難うございました。在校生の益々のご活躍と卒業生皆様のご多幸を切に祈っております。
初出勤の1977年4月5日は大隈講堂での入学式の日でしたが、ちょうどその日、硬式野球部は選抜甲子園大会の準々決勝戦(対智弁学園)を戦っていました。先輩の先生方の、野球の戦況に一喜一憂しながら、学年初めのたくさんの仕事をサクサクとこなしていく姿が大変に印象的でした。あの日から、文字通りあっという間の40年間でした。
自分に与えられているものをフルに発揮できる生き方(これこそが超一流の人生ですね)を模索する思春期、青年期の営みは実に輝かしく、「奇跡」としか言いようのないものを感じます。若さについて考える必要のないほど若い、人生を決める「宝」の時代を生きる中学生、高校生の覚醒と飛躍の瞬間に立ち会えたことは、大いなる「誇り」です。
朝が来る、その意味は?世界が自分に「何か」を期待しているということに尽きると思います。その「何か」とは、誠実さ、ひたむきさ、他者への思いやり。結局のところ、最後の拠り所はそこしかありません。これこそが早実の生徒の底力です。早実の生徒の力は、早稲田全体を動かす力であり、日本を左右する力であり、世界の未来を切り開く力であると確信しています。
約20年間のサッカー部の顧問としての仕事も、大きな、そして大切な財産になりました。全国大会の東京都予選のベスト4に5回ほど進みましたが、ついに決勝には出られませんでした。敗戦直後の悔しい気持ちは、今もそのままのボリュームで心に残っています。
書道部の合宿も本当に楽しい思い出です。
とまれ、数え切れないほどの失敗を繰り返しながら、強い信念を持って教育という仕事に向き合っていらっしゃる早実の先生方、職員の皆さんに支えられた40年間でした。心より感謝申し上げます。
面白くなきゃ授業じゃない。中身濃く刺激的でエネルギッシュに。三十七年が経ちやっと少しはましな授業が、という頃には身体が言うことを聞かない。生きのいい授業が難しくなれば辞め時です。
何とかあと一年踏ん張って、今年担当した高2に『源氏物語』の奥深さをもっと伝えたい。新中3が企画中の斬新な形態の古京教室をお手伝いせねば。そんな思いとのせめぎ合いでした。昨夏槍ヶ岳を登りながら、山岳部顧問も限界を超えたなと…。
三年残しての退職ですが、「とことん働き尽くした」と思えるのが幸せです。
高山に登り遙か雲海の彼方に御来光を望む時、人間存在を超える何か偉大なものがあるように感じます。
人の豊かさは、どれだけ得たかではなく、どれだけ与えたかによるという考えをご存じですか?
山岳部OBのS氏が学生時代インドを旅してダライ・ラマに会い、「人間にとって最も大切なものは何ですか?」と質問。師はにっこり微笑んでただ一言、「Good Heart」と答えたそうです。その言葉を頂き、三度目の中等部連絡者時代、「Good Heart」と題した学年便りを発行し続けました。
クラスの生徒たちと「毎日一言メモ」の交換。朝の15分間読書。合唱祭。立志式(弁論大会)。科目担当者に依頼してシラバス集作成。稲穂祭学年企画「学習成果の発表」。クラスを解体し、名古屋・京都・大阪からそれぞれ入るコース別学習を実施した古京教室。座禅・宿坊体験・伝統産業への聞き書き班別学習を導入した京都教室。etc.
若き日々は熱情と共に。好き放題にいろんなことを(ドン・キホーテ)。学校は生き物です。輝かしい時代も、苦悩の時期もありました。挫折しても人は何度でも立ち上がれる。過去は変えられないが、自分が変われば未来は変えられる。社会も同じ。
早実で学び、巣立ってゆく若い諸君が、「Good Heart」を持つ真に豊かな人間として、世界をより良くしてゆこうというちょっとした勇気を持ち続けてくれたなら、これに過ぎる喜びはありません。お元気で。
「去り行く者は多くを語らず」が私の美学ですが、許してくれませんでした。
25歳のときに英語科の非常勤講師として早実に奉職し、数年後に専任教員となりました。そのときに固く誓ったことは『生徒に迎合はしない!』ということです。
専任となって5~6年間はラグビー部の副顧問を務めました。この頃は早大職員の方がコーチとして熱心に指導してくださり、高校ラグビー部は東京都の決勝まで進出しました。しかしその対戦相手は、その後の全国大会で優勝するという強豪校でした。
やがて自分でも指導できるバスケットボール部に移り、中学を担当させていただきました。基本・基礎を細かい点までかなり厳しく指導し(体罰は1度もありません)、『素人集団がミニバス経験者に勝つ!』・『センスの無さは努力と工夫で補え!』を合い言葉に、選手達もよくやってくれました。おかげで4~5年に1度は東京都のベスト4に勝ち進みましたし、対戦相手を30点差40点差で圧倒して都大会で優勝し続けるチームを、5点差まで追い詰めて敗れたのは早実だけということや、また、ある年の関東大会ではあと1つ勝てば全国大会へ、ということもありました。(早実を負かした対戦相手はこの関東大会で優勝し、全国大会でも優勝しました。)また、髭を生やすきっかけとなる、たまらなくショッキングで忘れられない敗戦も経験しました。
当時は学校を出ての校外教室が盛んで、生徒共々朝3時に起きて3,000m級の中央アルプス駒ヶ岳を8時間余りかけて登り、山小屋に1泊して翌朝も4時に起きてご来光(=日の出)を拝み、山々の峰を縦走して下山するとか、あるいは、尾瀬の湖水地帯とその周辺の地域研究に勤しむとか、学年ごとの行事で多くの得がたい経験もさせてもらいました。
以上のことは、早実が新宿区鶴巻町にあった男子校時代のものです。国分寺に移ってからは共学になったこともあり、けっして卑ではないもののそれなりに粗野に思われたそれまでの早実のイメージは一変しました。バンカラ風が流行らない現代であれば、それで良かったのではないかと思います。そして初等部が創設され、その卒業生が中等部に進学してくるようになって再び変化が生じました。
男子校のときにいつも思っていたことですが共学になってからも、「早実には気持ちのいい生徒がとても多い」と感じます。実際、卒業後も付き合ってくれる卒業生が幾人もいてくれるのは、教師冥利に尽きると思います。今や立派な社会人として働く彼らと人生の一時期を共有できたのは望外の喜びです。彼らと出会える機会を提供してくれて教師としての喜びを体験させてくれた早稲田実業学校には、ただただ感謝するばかりです。
定年まで早実の教員を続けられてきたことを振り返ると、人生とは大小問わず常に他の要因で自分の描いたシナリオが変化をし続けることを認識させられます。また、自分を偽ることの難しさをも実感しました。
そして、哲学者アレンの言葉を読み返しました。アレンは「幸福論」の中で“私は、個々の人間がいかに死ぬまで自分の人生を歩くか、またいかにあらゆるものについて機会を利用するかに、感心する。”
1969年7月激しい大学紛争が続く中、早稲田大学を退学するつもりで数学科の連絡事務所に行くと、恩師の皆川多喜造教授が居られ事情を話したところ、「素粒子論を勉強するなら数学は絶対必要だから、此処で数学を勉強してからでも遅くない。」と説得され、退学届けはゴミ箱へ行きました。大学4年晩秋、皆川先生から「君に早実の数学教員に来ないかと・・・」と言われたとき、まったく職種として考えてないものでしたが、早実教員なら研究日に物理の勉強も出来ると思い承諾して早実の教員になりました。平行して、皆川先生より理工学部応用物理学科の植松健一先生を紹介され簡単な口頭試問を受けました。何とか答えられ特殊学生として勉強することになり教員を続ける上での土台になりました。
早実での思い出は多々ありますが、昭和49年初めて高等部1年担任なったときの思い出を!
アイスホッケーをしたいという生徒の内数名が私のクラスに居ることより同好会の顧問を、また少林寺拳法同好会は当時顧問をされていた小杉先生(高等部1年担任)から要請を受けて顧問になり、多忙な日々を送っていました。特に、アイスホッケーは深夜1,2時からの氷上練習で、大変でしたが当時は若かったので生徒と楽しい時間を過ごせた思いでした。少林寺拳法は入門しないで多度津の本部教員指導者講習会に参加したところ、温かく指導をして頂いたことは今でも忘れませんし、好きになりました。定年まで顧問に携わることはできませんせしたが、高体連少林寺拳法専門部部長を以って卒業となりました。共にクラブに昇格し全国大会で活躍できるレベルまで成長したことは感慨無料であり、これらに携わった方々のご苦労に感謝いたします。
早実に就職して、色々な意味で優秀な生徒や素晴らしい先生方に出会い、支えられて一歩一歩成長させて頂きました。そして、二十年程経ったある日、“早実悪くないなー”と感じるようになり今日を迎えることができたことを心より皆様に感謝申し上げます。早実が益々発展することを祈念して退職の言葉とします。
4月からは学校沿革史編纂という仕事をすることになりましたので、皆様には色々な資料を提供して頂くようにご依頼することがあると思いますが、その折には宜しくご協力の程お願いいたします。
14年前,創立100年を経た早稲田実業学校は,初等部・中等部・高等部の学校となり,この国分寺の地から,次の100年に向け船出した。それは,奥島孝康理事長・早大総長(当時)による「日本における初等,中等教育のモデル校になる」(開校の辞)という高らかな宣誓によって,方向づけられた。
社会,そして教育界に向け発せられたこの宣誓を,赴任した私たちは,そのまま受け止め,まったく礎のない初等部づくり,新教育創造の仕事と四つに組んだのである。
本校にこれまで存在しなかった初等教育だったが,その土台に据えるべき教育遺産の多くが,日本の教育土壌には掘り出されないまま眠っている。過去の,様々な教室,学校で取り組まれ実践されてきた教育研究の到達点,すなわち教育史における初等教育の成果がそれである。したがって“遺産”とはいうものの,すべて成文化され,新しい教育づくりに資する形で残されているわけではない。労苦,精進を惜しまず,そこから「学び,見出そうとする者」だけが,これを目にすることができるのである。
本校初等部は,諸初等学校から遅れて出発したが,確実な教育の進展が要請される学校である。初等部を立ち上げた私たちは,上述の史的教育研究から得られる成果をはじめ,初等教育における確かな理論及び実践の研究成果を拠り所に,研究を学校づくりの柱に据え,自身の力量を蓄え,そして教育活動する実践的教育研究者に,自らを鍛え上げていくことにした。
今,ここに立ち,その日々を振り返ると,坦々とした歩みを心がけながらも,多くの出会いや別れに遭遇し,その度に心揺さぶられる時々の自分を思い出すことができる。それは,生の実感と充実感の素直な表出だったのではないかとも思える。こういう様々な感動を満喫させていただいたことに,学校関係者をはじめ,保護者各位,そして何よりも早稲田実業学校初等部において出会い,ともに勉強した学友である子ども一人ひとりに,心より感謝申し上げたい。
実り多いこの14年間に万謝。