Text&Photo:Sumire Tanabe
幼少期から、たまに、瞼の裏に何とも形容しがたい模様が見えることがある。初めて見えたのは、黒い背景に赤くて目の細かい網がかかっているような模様。それをずっと見るともなく眺めていると、段々とモノクロの幾何学的な模様が出てくる。面白いことに、一つの模様に焦点を合わせようとすると、たちまち模様が変化していく。万華鏡のようなこの現象は、芥川龍之介の晩年の作品『歯車』に登場する印象的な描写と酷似している。しかし私のそれとは異なり、小説の方では頭痛が併発するようである。この表現には彼自身の不安定な精神状態が反映されていると考えることができる。
ところで、ある年の医師国家試験には、『歯車』を題材とした問題が出題されている。小説の主人公である「僕」の症状からもっとも考えられる疾患はなにか、というもので、正解は片頭痛だそうだ。視界の内に歯車が回る描写は、片頭痛の前兆と考えられる。しかし、この現象の直接的な原因は未だ見つかっていない。ただ、網膜上の毛細血管に流れる血液が見えている、とする説が有力なようである。
『歯車』は、芥川龍之介の作品の中でも、非常に印象深い短編である。皆が知覚していない運命や死を直観してしまった恐怖を克明に描いている。セピア色の空気。スモッグのかかったような雰囲気。陰鬱さがそっと寄り添ってくるような空気感が心地よい。彼は繊細な感性をもってして事象を捉え、克明に記述した。一つ一つの描写が塵となって、物語世界の空気を淀ませ、濁らせている。
この作品の特徴は、物語世界が、文章全体を通じて何か発展するだとか、元の状態に戻るといった明確な帰結がないことだ。はたから見たら全く無意味な偶然に必然を感じ取り、ただただ漠然として時間が過ぎていくのみである。はっきりとした区切りを設けない文章構成は、物語全体を冗長にする危険性を孕んでいる。但し、この文章においては、それが絶大な効果を与える。普通読者は、終了の合図、即ち物語のフィナーレを経て、「ああ面白い物語だったなあ」と現実に戻っていく。恐ろしいことに、『歯車』においては、読み手が読了後も物語の余韻を引きずりながら日常生活に戻っていかなければならなくなるのである。
淡々とした描写の連続から、「何かが差し迫ってきている」と肌で感じる。生きていくことの本質に触れた気がして、少しぞっとする。と同時に、当たり前のことでしょう?と妙な親しみを感じつつ、仄暗さを素直に受け入れてしまう。このようにして、ゆっくりと、物語を自己の一部として取り込んでいく。文章中で主人公は、「運命の僕に教えた『オオル・ライト』と云う言葉の意味を了解」する。読者も同様、ふとした時に、『歯車』の一節を思い出し、はっとするのである。ああ、これが彼の言いたかったことなのか、と。