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ESSAY & INTERVIEW

何が持続可能か

投稿日 2024/3/19

Text&Photo:Yuya Fukumuro(5E)

哲学者の斎藤幸平氏はSDGsを「大衆のアヘン」と呼び、人々の環境対策がマイバッグやマイボトルなど見せかけの小さなものに過ぎないことをたびたび指摘している。単純に的を射た意見だと感じた。SDGsはどこか胡散臭くていまいち好きじゃない、そんな意見を目にすることは多い。声には出さずとも、あまり信用ならないと思っている方は多いのではないだろうか。

実際、SDGsは一種のネタとしてネット上で面白がられてしまっている現状がある。例えば軽く調べただけで、二種類のSDGs0番が出てくる。もちろん0番なんてものは公式には存在せず、インターネット上で有志によって作られたものだ。ひとつは赤い背景に動植物が繁栄した絵が載っていて、「人類をなくそう」 。もうひとつは青い背景でSDGsのマークに大きくバツがつけられて「実現可能な目標を立てよう」と書かれている。

どちらもちょっとした皮肉が効いたコラージュ画像だ。こんなものが流通するのはけしからんと思う偉い方々、ちょっと待っていただきたい。なんでかって、SDGsロゴがこのネタを作るのにちょうど良すぎるんだから。数字、短文、そして白抜きのアイコン、どれもメッセージを伝えるのに最適化されている。逆に言えば、いじれるところが多いということ。どこかをちょっといじってしまえば、一枚の面白みがある見栄えの良い絵になる。つまりこれは、言い過ぎかもしれないけれど、お笑い芸人のフリップ芸と同じものなんじゃないか。

SDGsのコラージュは、フリップ芸のようなジョークになる条件を完璧に満たしている。ビジュアルの良さはもちろん、面白がられるものの典型である、権威への鋭い皮肉まで兼ね備えているのだから。そもそもが国際的な枠組みによって採択された、極めてまっとうなものなので、そこへの皮肉は自動的に面白くなってしまうのだろう。

SDGsというのは、誰でも秀逸なジョークの作れるテンプレートと化してしまっている。それが悲しき現状。今のところはそんな感じだ。それに加えて、分かりやすいマークとは裏腹にその細かな内容(ターゲットと呼ばれ、17個の大まかな目標の中になんと169個も存在する)は難解を極める。言っていることは何となくつかめるけれど、ところどころ専門用語やアルファベットで表された指標があり、なかなか理解が追いつかない。僕自身、授業の調べ学習でSDGsを扱ったことがあるが、世界の現状についての知識がある程度なければ、具体的に何を変えるべきか議論するのは難しいと感じた。はじめの一歩は踏み出しやすくても、いずれ専門的な内容を通るのは避けられない。SDGs、実はハードルが高い。

「大衆のアヘン」の話に戻ろう。この点については意見が様々あるし、人によって考えが違うのは当然。ただ、僕自身の意見としては、そこまで大々的にSDGsキャンペーンをしなくても良いんじゃないかと思う。ことが大きければ大きいほど笑いのネタになりやすい。結局冒頭のような小さな環境対策を個人個人が行えば、最低限SDGsの体面を保つことはできる。斎藤氏が言うように大きな環境対策にはならないかもしれないが、我々がマイバッグやマイボトル、マイ箸など小さなことでも積み重ねていくしかないのかもしれない。このままでは2030年までに持続可能な開発どころか、「持続可能な笑い」が出来上がってしまう可能性が高いから。